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Fateネタバレ感想(10) -セイバールート その8-

前回までの流れ
 セカイ系について (1) (2)
 Fateネタバレ感想
  序論 (0) (1) (2)
  セイバールート (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)


物語形式の視点から眺めると言っても、いろいろとありますが、
Fateにおける焦点は「英雄譚(ヒロイック)」、「近代ロマンス(恋愛譚)」、
そして「成長譚(ビルドゥングスロマン)」にあります。
本題に入る前提として、最小限に端折って説明していきます。


この3つの関係を歴史的に追ってみますと、
まず、神話以来はるかな長い歴史を持つ「英雄譚」があります。

そこから西洋ではキリスト教思想とその論理を取り込んだ中世ロマン(騎士道ロマン)が派生し、
更に時代を下って脱キリスト教化を図る「近代ロマンス」が生まれました。
宗教紛争(特に新旧対立)への嫌悪から宗教の権威・地位が大きく下がり、
その代替物として個人主義を称揚する立場が主流となりました。
このような思想基盤の変化に伴って「神の愛による救済」の代替物として現れたのが、
個人を基盤とする「個人間恋愛による救済」です。
「近代ロマンス」の背景には、こうした思想の流れがあります。
(関連:「「告白」という恋愛様式」『めがねのままのきみがすき』はいぼく)


「成長譚」が現れるのは、更に時代を下ってのことですが、これがまた定義が難しいのです。
そもそもの「成長」とは、オタマジャクシ(幼体)とカエル(成体)とが区別されるような、
生物学的な変化、身体的な変化を示す言葉です。
ところが、目に見えない人間の精神にも同様の変化が起こるはずであり、それを「成熟」と呼ぶ、
そうした習慣が始まってから、その一義的な理解は難しくなるのです。

例えば、子供から大人への成長では、そこには「子供であることの否定、大人になることの肯定」という規範が描かれます。また別の例では、男性中心主義的な大人像への批判というテーマが描かれ「暴君である父の否定、子供的な要素の再評価・肯定」という規範が描かれたりします。

このように「ある規範(悪意ある言葉にすればイデオロギー)への否定」といった形式を満たすこと。それだけの条件で、内容的にかなり矛盾する価値観である作品群であっても、みな成長譚としてひとくくりに扱われてしまうようです。その結果「成長譚」を具体的にイメージさせにくいものにしてしまっているのです。

勿論そこには「自省」する姿勢があるのですが、寧ろそれ以外の共通点が何もないと言っても良いでしょう。中には、自省の後の展望を描かずに「自己否定のみ」で行き詰まって終わってしまう、そういうものもあります。
 関連:仲俣暁生「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」、大塚英志『人身御供論』、本田透しろはたレビュー)

近代ロマンが『殉教、信仰告白』のイメージ寄りで、
成長譚が『懺悔、罪の告白』のそれと言ったら伝わるでしょうか。



えー、この辺りは関心のない方には解らないほど、かなり端折った説明で済ませましたが、それでもこれくらいの量になりました。

では、なぜここまで長々と物語形式の歴史を説明しなければいけなかったのか、最後にその理由を説明します。

セイバーをはじめサーヴァント達は、世界各地の神話や伝承上の英雄でした。
士郎や凛にとって「幻想的(フィクショナル)な存在」だったのです。
わたし達プレイヤー側にとって、士郎や凛がそうであるように。
つまりセイバーと士郎との関係は、saverという道の先達・後進であると同時に
フィクションと受け手との関係をも意味しているのです。

そして、フィクションという切り口で連想されるのは、
TYPE-MOONが『月姫』では同人、受け手の側に立っていて、
この『Fate』からプロ、送り手の側に立っている、ということです。

人間でありながら、英雄という幻想に近づこうとする衛宮士郎。
その二重的(パラドキシカル)な立ち位置に、わたしはTYPE-MOONの影を見ています。

Fateネタバレ感想(9) -セイバールート その7-

久しぶりに更新します。

当初は1ヶ月の予定だった出張はまだ続いています。
が、忙しかったとはいえ、実質休止期間が4ヶ月を超えてしまいました。
さすがにどうにかしないとと思い、仮復活ということで。


今回はセイバールートのまとめをします。
端折った細かな検証は、以前の記事を参照下さい。

前回までの流れ
 セカイ系について (1) (2)
 Fateネタバレ感想
  序論 (0) (1) (2)
  セイバールート (3) (4) (5) (6) (7) (8)

士郎とセイバーはそれぞれに、saver(=自分が傷つくことを厭わず、他人を守ろうとする者)であろうと願っています。
しかし、saverが複数いては、「他人すべてを守りたい」という願いは叶えられません。この矛盾が、事あるたびに2人を刺激していくことになります。
そして矛盾から生じる関係崩壊を直前で止めているのが、「サーヴァントなしでは勝てない」「マスターなしでは願いを叶えられない」という制約をもうける聖杯システムです。(ちなみに聖杯については、桜ルートで語られます)


さて、こうした構造を背景に、セイバールートでは表向き、他陣営との戦いをとおして「力と正義との両立」というサブテーマが展開されます。
近接戦メインのセイバーにとって、ライダー、バーサーカー、ギルガメッシュと最もハードなカードが並べられ、その全力を逸らさずに受け止めようとして、一度は劣勢に立たされる。そして、再戦で逆転して勝つ。英雄物語(≒ジャンプ的orプロレス的)の王道の展開を、キレイに再現しています。

ところがその半ばから、士郎はもう1つの矛盾を抱えることになります。
それは「正義と他の価値との両立」というサブテーマです。

凛ルートの先取りになりますが、投影魔術の本質は「完全なる模倣」であり、転じて「他人への変身」「自分殺し」に通じます。
士郎には「投影魔術」の才能しかなく、今回の聖杯戦争で生き残るただ一つの道として、投影魔術の使用は必然でした。そしてバーサーカー戦に間に合うものは「カリバーン投影」だけでしたし、それによって巨人殺しを成功させました。

しかしそのカリバーン投影が、セイバーにある確信をもたらし、セイバーと士郎との関係に亀裂を入れます。それは「士郎がセイバーと同じタイプの英雄になりつつある」こと、「士郎がセイバーの域に追いつき、同じ挫折を味わうだろう」こと、「士郎の挫折をセイバーが望まない」ことの3点です。

士郎は「セイバーは間違っていない。だから、俺も同じ道を行こう」と信じています。
セイバーは「わたしは間違っていた。だからシロウは同じ轍を踏んではならない」と信じています。
かつての士郎と切継とのすれ違いがここで再現され、今度は生きている同士、衝突に至ったのです。

最初に挙げた「2人のsaver」の矛盾が、ここで「セイバーの正しさの是非」という形で顕在化しました。

主観の違い、認識の違い、それだけと言えばそれだけです。
しかし、ここで2人は「自分の判断の正しさ=相手の判断の過ち」を主張してしまいました。
士郎はさらに、バーサーカー戦以降の「恋愛要素」も重ね合わせて「自分と一緒に現代で生きよう」とまで言ってしまいました。

最後の敵ギルガメッシュは、この矛盾を最も効果的にえぐる存在でした。自分の判断を信じる「揺れない自我」の点で、他人の望みよりも「自分の望み」を優先する点で、いずれも彼は最強レベルだからです。

ボロボロに負かされるセイバーの姿をみてsaverの本分に立ち帰ることで、士郎はギルガメッシュの撃退になんとか成功しました。これもまた生き残るただ一つの道、必然でした。

しかし、この経過のなかで士郎は、「恋愛感情でセイバーを引き留める選択肢」の最も醜い姿をギルガメッシュに見せられることになります。
この時点をもって、ラストでの士郎の態度はおおよそ確定してしまった、と言ってよいでしょう。

セイバーの帰還に至るまでにはもう少しありますが、大きな流れではここまでで十分だと思います。(最終盤ではむしろ言峰のテーマが立ち上がり、話がぼやけてしまいますので、ここでは割愛します)


士郎とセイバーはどちらも、置かれた状況の中で最良と信じた行動をその都度とりつづけ、そのことに誇りを持ち、同時に責任を負う覚悟を持っていました。そしてその積み重ねのなかで己の矛盾に気づいたそのとき、セイバーはその過ちを認めて正しました。過ちを抱えたままに士郎と一緒に過ごす未来ではなく、士郎の行動を受けて己の在り方を変えることを選んだのです。

2人とも恋愛に不器用だった。というよりも、saverになろうとするタイプにとっては恋愛は二の次三の次なのでしょう。

恋愛に向かない2人が戦争のさなかに出会って、つかのま気持ちを通わせあうけれど、別々の道へと別れる。それはエロゲの主流たる恋愛ADVの王道からは外れるんでしょうけど、例えば恋愛小説(or青春小説)としては結構ベタなカタチの1つだろう、と思います。


次回は、物語形式の視点から、セイバールートを改めて眺める予定です。

Fateネタバレ感想(8) -セイバールート その6-

前回までの流れ
 セカイ系について (1) (2)
 Fateネタバレ感想
  序論 (0) (1) (2)
  セイバールート (3) (4) (5) (6) (7)


 セイバールート詳細解釈、中盤その3。

   「他人のために」を貫いていたはずの士郎とセイバーが、
   なぜ「エゴ」という対立軸で傷つけあわねばならなかったのでしょうか。

 この問いへの2点目の答えに向けて、まず前回では簡単にまとめていた「士郎の英雄としての台頭」、そして「投影魔術」を見ていきます。


 序盤その1で軽く触れたように、「相手をsaveしようとする2人の衝突」は早くも四日目から見られます。

  「シロウは私のマスターでしょう。
   マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由もないでしょう」
  「な―――バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんているもんか……!」

  「サーヴァントとして契約を交わした以上、私はシロウの剣です。
   その命に従い、敵を討ち、貴方を守る」
  「経過はどうあれ、これは俺が始めると決めた戦いだ。だから――――」
   俺の代わりに誰かが傷つくのは、違うと思う。
              (セイバールート 四日目午前『セイバー(I)』)



 けれど四日目と十四日目とを比べたとき、saver(=英雄)であろうと努力する士郎の姿勢にはあまり変化がありません。むしろ変わったのは「セイバーの認識(=士郎をどう見ているか)」の方です。

  「貴方は―――シロウは、私と似ています。だから貴方の間違いも判る。
   このまま進めばどうなってしまうかも、同じだから判ってしまう」
             (セイバールート 十二日目深夜『セイバー(Ⅲ)』)

  「―――シロウなら、解ってくれると思っていた」
              (セイバールート 十四日目夕方『橋上の別れ』)


 ここでセイバーは「私と同様に"より良いsaver"になろうとして、士郎もいつか挫折するだろう」と考えますが、この考えは「士郎は既に"saver"の1人であり、その力を更に高めるだろうことへの確信」を前提として初めて成立するのです。

 この認識の変化の根拠を「巨人(バーサーカー)殺し」の偉業とその決め手である「投影魔術」に求めるのは、ごく妥当なところでしょう。


 投影魔術によるカリバーンの再現と、カリバーンによる王の選定。中盤その1と同様にこの2つの対比もまた、士郎とセイバーとの類似を示しています。
 とりわけ今回の例であるカリバーンは、セイバーの最初の偉業を象徴するものです。「カリバーンを抜いたアルトリアと現在の士郎は、saver(=英雄)として同じレベルにある」とセイバーが認識した。こう想定することで、セイバーの行動がすっきりと説明できるようになります。



 では、続いて「投影魔術」について、特にその象徴性について考えてみましょう。

 まず考えられるのは、投影魔術の師であるアーチャーの存在です。詳細な検証は凛ルートに回しますが、その体得過程はどのルートでもほぼ共通しており、ルートの特色をそこに見出すことは難しいでしょう。

 ならばここでは「どんな宝具が投影されたのか」に注目してみます。
 凛が説明する「投影魔術の一般的な使用法」に比べて、士郎は「宝具ばかり投影している」のです。

 英雄の象徴である宝具、「貴い幻想」を再現する投影魔術、士郎の憧れるまぶしいもの。
 ルートによって「投影されたもの」が異なるならば、それらの傾向の違いが、そのルートにおける士郎の内面、とりわけ憧れや理想を推測するための有力な根拠となるはずです。

 セイバールートで投影されたものは、カリバーンとアヴァロン。どちらもセイバーが所持していた宝具です。


  「……ああもう、てんで分からないよ切嗣。
   一体さ、何をすれば正義の味方になれるんだ」
   その肝心な部分が、この五年間、ずっと掴めないままだった。
             (セイバールート 一日目深夜『鍛錬(魔術回路)』)


 士郎の憧れである正義の味方。
 その「具体的なイメージ=理想像」は、五年前の切嗣の死によって、ずっと不在のままでした。「現在の士郎」と「正義の味方=切嗣」との差が大きすぎて、次のステップ・目標を見つけられずにいたのです。

 そんな士郎にとって、セイバーの在り方は模範としてハマったのだと思います。加えてバーサーカーという切迫した難敵があり、セイバー以外の助言者として凛とアーチャーの2人がいました。セイバーという目標に向けて、このうえない速度で走る条件が揃ったのです。

 これをひとまず、「士郎の英雄としての台頭は、動機において"セイバーの存在に全面的に支えられていた"」とまとめてみます。

 それによって「投影魔術」に成功し、「巨人殺し」を成し遂げました。士郎は、セイバーと肩を並べて戦うだけの力を身につけたのです。

 ここまでの過程をもって、2つ目の答え「士郎が成長したこと」とします。


 よく似た2人が一緒にいるということが、当の2人にどんな影響を及ぼすのか。
 セイバールートでは、このトピックを「2人の英雄」という形態で、見せてくれます。


 シナリオを短絡的にまとめないためにルート上の時間軸をあちこち往復しましたが、
 「わかりやすく結論を言ってくれないまま、長文を重ねられても
  全体としてどこが重要なのか判んなくなっちゃうよ」
 と思った方も多いでしょう。
 次回で、序盤から中盤までを時間軸にそって、一度まとめるつもりです。

Fateネタバレ感想(7) -セイバールート その5-

前回までの流れ
 セカイ系について (1) (2)
 Fateネタバレ感想
  序論 (0) (1) (2)
  セイバールート (3) (4) (5) (6)

 セイバールート詳細解釈、中盤その2。
 前回の最後に出した問い。

   「他人のために」を貫いていたはずの士郎とセイバーが、
   なぜ「エゴ」という対立軸で傷つけあわねばならなかったのでしょうか。

 これを明らかにするために、もう1ステップ考えることにします。
 前回はギルガメッシュ戦の敗北から時間軸を逆にたどってみましたが、今回はその前を考えてそこから順に追ってみましょう。


 十日目、ビル屋上でのライダー戦。ベルレフォーンから逃げられない士郎を助けるために、セイバーは聖杯を諦める覚悟でエクスカリバーを使います。これに魔力を費やしたため、セイバーは魔力不足で倒れてしまいます。

 十一日目のバーサーカー戦。凛は、士郎とセイバーを男女関係にすることで突破口を開こうとしますが、これだけではバーサーカーに対抗できませんでした。反対に凛が危機に陥ってセイバーが消滅を覚悟したとき、士郎はエクスカリバー発動を令呪でストップさせ、投影魔術を成功させます。

 ポイントだけを要約すると、およそ以下の3点です。
  ・士郎の危機に、セイバーが英雄として立ち向かい勝利を得る。
  ・難敵バーサーカーに対する、アーチャーと凛の抵抗と敗北。
   ・男女関係による突破の試みと失敗(不十分な成功)
  ・凛とセイバーの危機に、士郎が英雄として立ち向かい勝利を得る。

 この流れを、古典ファンタジーの用語から、「敵」の排除と「宝物」の獲得、と表現することが出来ます。


 さて、以上を踏まえて、最初の問いに戻りましょう。
 十二日目から十四日目夜、バーサーカー戦からギルガメッシュ戦までのインターバル。(途中のキャスター戦とギルガメッシュの登場は、前座として省きます)

 士郎とセイバーが「エゴ」という対立軸で傷つけ合うに至る第一の要件は、この期間における「敵の不在」です。そして第二の要件は、巨人(バーサーカー)殺しによる「士郎の英雄としての台頭」です。

  「今のセイバーに対抗できるサーヴァントなんて一人もいないわ」

  ブリテンを統一し、倒すべき外敵がいなくなった筈のアーサー王は、その最後に思いもかけぬ『敵』と戦う事になる。
  それは守るべき自国の軍―――腹心の裏切りによって、アーサー王は共に戦場を駆けてきた騎士たちに襲われ、これを殲滅したという。
       (セイバールート 十二日目朝『朝食作り~衛宮邸会議-ハンバーグ争奪戦』)

  「戦うな、ですか? 私に守られなければならない未熟なマスターが何を。そのような世迷言を吐くのは一人で戦えるようになってからにしてください。
   ―――ふん。まあ、そんな事は永遠に有り得ないでしょうが」
(セイバールート 十四日目夕方『橋上の別れ』)


 聖杯戦争は終わっていないけれど当面の目標が見当たらない、宙ぶらりんな空隙。そこで視界に入ってくるのは「隣にいる英雄」。誰もを救おうとして果たせず、その苦しみを抱えることで自分を鍛えるタイプの人です。

 そんな英雄が2人いて、相手の苦しみを救おうとしたらどうなるか。
 それは、相手の英雄性を否定することに他なりません。
 古人曰く、両雄並び立たず。
 英雄は、他の英雄を救えないのです。


 強敵の前では、2人は協力することが出来ました。
 しかし、平穏のなかでは敵もいないければ助けを求める第三者もいません。もっとも救うべき相手は、「英雄であろうとする自分」を目の前で否定しています。

 救えないなんて許せない。
 報われないなんて間違っている。
 そう信じるがゆえに、2人は傷つけあいます。

 十四日目、デートからの帰路。
 橋上で相手の傷を暴きあう、2人の英雄。
 共に闘い、信頼を重ね、好ましさを感じている相手からの言葉、
 言峰の切開とは比べられないほどの痛みと重みがそこにあります。

 他に救うべき対象を見つけられない、平穏な状況下。
 2人は、相手を「敵」とみなし、自分の英雄性を「自分の望み(=エゴ)」によって守らねばならなくなりました。


 長くなりましたが、ここまでが理由の1つ目、「士郎とセイバー、2人のsaver(=英雄)が同じ場所にいること」です。
 次回は、これをもう少し一般的な形式として捉えて、理由の2つ目「士郎が成長したこと」を取り上げようと思います。

Fateネタバレ感想(6) -セイバールート その4-

最近は忙しく、しばらく更新できずにいました。
hollowの解釈を進めるうちに評価が最初よりも上がってきたので、「hollowで使われた言葉を使って書くべきか」など、迷うところもあったりなかったり。

前回までの流れ
 セカイ系について (1) (2)
 Fateネタバレ感想
  序論 (0) (1) (2)
  セイバールート (3) (4) (5)

 前回書いたように、セイバーと士郎はどちらも「英雄」の長所・短所を併せ持っています。ここでわたしが取り上げたいのは「よく似た2人が一緒にいるということが、当の2人にどんな影響を及ぼすのか」ということです。そのために、いちど終盤の展開を追ってみて、改めて中盤に遡り、シナリオの流れを問い直すことにします。


 セイバールート詳細解釈、終盤その1。

 終盤は、十三日目・キャスター襲来からエンディングまでです。
 この終盤のキーとなる、8人目のサーヴァント・ギルガメッシュ。今回は、この「英雄王に対し、セイバーと士郎がどんな態度で臨んだのか」に焦点を合わせてみましょう。


 十四日目のデート、橋上の決闘、そして少しの歩み寄り。そして夜の公園での対決。

 まずセイバーは「王」という軸で敗北します。
 セイバーの二つ名は「騎士王」。「善なる騎士――主の下僕」と「善なる王――領民を守る者」の2つの要素を示す名前。
 ギルガメッシュの二つ名は「英雄王」。こちらは少し説明が必要なのですが、「善なる王――快楽を与える者」「悪なる王――苦痛を与える者」の2つの要素を示す名前。

 一方、士郎は「(恋愛における)与える男」という軸で敗北します。


 なぜ、ここで2人がそれぞれ敗北したのか。
 それは、ギルガメッシュの最も得意とする「(自分勝手さである)エゴ」で挑んだからに他なりません。「他人を救う」ために努力し続けている2人が手にしたエゴは付け焼き刃のようなもので、ギルガメッシュの筋金入りのエゴには敵いません。それは、「こんな在り方は、"私の願い=わたしのなりたいカタチ"ではない。(=これは"本物"ではない)」「この在り方においては、ギルガメッシュの方が徹底している(=あれは"本物"だ)」とセイバーも士郎も内心で思っているからなのです。

 この敗北を経て死にかかっている互いを目にし、そこで哄笑しているギルガメッシュを目にすることで、セイバーと士郎は「他人のために」という理想に戻ることが出来ます。この時点ではまだ言語化されないものの、再度投影したカリバーンがギルガメッシュのメロダックに打ち克つ理由は、一度「これは偽物だ」と思った理想を再び「これは本物だ」と確信することが出来るようになったからでしょう。


 これより後の展開は、大抵の方は理解しているはずですし、よそのレビューにも書いてあります。士郎とセイバーとの別れ。柳洞寺での決戦。教会地下での言峰の問い。シナリオをEDから逆に辿れば、最後の問いは見やすいものです。

 しかし、シナリオにはその決戦の前がありまして、その前段階にこの十四日目のギルガメッシュ戦での「エゴにおける敗北」があります。


 では「他人のために」を貫いていたはずの2人が、なぜ「エゴ」という対立軸で傷つけあわねばならなかったのでしょうか。

 その理由を、2つあるとわたしは考えます。
 1つは「士郎とセイバー、2人のsaver(=英雄)が同じ場所にいること」、もう1つは「士郎が成長したこと」です。


 今回の文章の最初に、わたしは「よく似た2人が一緒にいるということが、当の2人にどんな影響を及ぼすのか」を取り上げたい、と言いました。
 実のところ、これはセイバールートに限ったことではありません。凛ルート、桜ルートでも語られ、Fateの構造全体に通じるトピックです。

 今回の最後の質問と回答を例にとって、次回ではこのトピックを取り上げるつもりです。
プロフィール

牡牛

  • Author:牡牛
  • 物語る技術(コンセプト、シナリオ、構造、演出、表現ほか)について、分析・提案するブログ。
    主な関心領域
     エロゲ(分析・感想)
     TRPG(プレイング技術の提案)
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