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読書感想:アシモフ『わたしはロボット』

思うところあって、図書館通いを始めました。田舎住まいなので蔵書状況はあまり良くないですが。
これまで偏った個人的関心をベースに読んできたタイプなので、古典あたりを広く読もうかなと。
ま、他にやるべきことも抱えてるので、気の向いたものだけupしていきます。


そんなわけで、SF古典より、アシモフ『わたしはロボット』ですが。
テーマらしきものを挙げるとするなら、1つには「老いへの恐怖」だと思います。
視点を変えれば、忠臣と主君押込も絡んできますが。
ずいぶん日本的な話が出てきたので、アシモフの前評判からはちょっと予想外でした。


総じて言えば、人間は経験し学習する生物です。
個体であるわたしたち一人一人もそうだし、集団としてもいろんな形で経験を蓄積しています。
もちろん一直線の進化ではなくて、総当たりADV的な手探りの蓄積ですけども。

この理屈を突き詰めれば、現在のわたしたちは過去の人たちより進んでいる筈だし、未来の人は現在のわたしたちより進んでいく筈です。
ロボットの有能さは、現在のわたしたちを上回る未来の子供、そして現在を愚かと断定するであろう存在として描かれています。
これは言うまでもなく、暗愚な中世を啓蒙した近代のネガです。自分の親殺しを肯定するなら、子による親殺しも肯定されなくては立場が一貫しません。

ところがアシモフの物語は、有名なロボット三原則で親殺しを禁じてしまい、それゆえに有能で忠実なロボットは「ボケ老人をあやす」ように人間を欺くようになります。
訳者あとがきでは、この部分を「ヒューマニズムと倫理」としていて酷いものでした。
こうした「現在による保身」は、現在でも青春小説として続いています。

余談ですが、わたしが『Fate/stay night』や英雄譚を評価するのは、「キャラクタ=論理」の一貫性を守って親殺しを受け入れる(断罪され捨て石になる)、そうした倫理があるからです。


一方で、別のルートでも「日本的」な指摘が出来ます。
「不徳の暗愚な君主を持ったとき、家臣はどうするべきか」というジレンマ、
易姓革命・放伐を肯定する中国・儒教圏と、否定する日本の尊王論との対比。
幕末ファンなら判ってくれるかも。

そんなこんなで結論。アシモフのロボットはチョンマゲを結っていた、ということで。
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theme : 読書感想文
genre : 小説・文学

年始のあいさつ

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 年始からずっと更新せず、結局1月はまったく更新なしという状況。恐っ。

 といっても、サボってたんじゃなくて、関係ありそうな本を読み漁ってました。関連する本を読み漁るだけで、時間はあっという間に過ぎていきます。

 大塚英志の民俗学(神話の構造分析)から、構造主義、ポストモダンの問題系、波状言論『美少女ゲームの臨界点』のエロゲ批評、ファウスト系の文学批評。関連性の有無という絞りを入れても、これだけの数を並べてその1つ1つ(作者1人1人)を自分の中で再構築する作業は、正直しんどいですね。


「なにが楽しくて、おっさん連中のトラウマを引き受けなくちゃならんのだっ。」

という不毛な気分になれること請け合いです。自分の立場を掘り下げて覚悟を決めておくための思想戦の練習・シャドウボクシング、そう思えば全くの無駄ではないのですが。
  

 とりわけ、大塚のオタク批評と基本的立場をおなじくする波状言論の批評は、どれもフェミニズム的な空疎な視点に偏りすぎていて、読むに耐えないものでした。理想としては具体性に欠け、幻想としてはロマンのかけらもありません。

 大きな物語(≒社会進化論)が現実的に機能したとするならば、
 それが機能したのはマクロな政治の場面であったはずです。

 しかし、大きな物語の喪失にいま切実に怯えているのは、
 幻想で生計をたてている作家やメディア関係者、
 思想(≒信仰)にのめり込んだ一部のインテリなど、
 現実政治を批判するために幻想に関わる人達だけ、という感覚がわたしにはあります。

 理念と現実との役割分担とか、虚構と社会との役割分担とか、
 幻想を再構築しようというビジョンが持てないうちは、
 批評なんてやらない方がきっと幸せになれます。
 体系の構築を捨てて相対主義に甘えてるようでは、
 モダンの覚悟と倫理に負ける一方だと思いますけどね。


 最後に、面白かった本の紹介。

石川忠司『現代小説へのレッスン』
 村上龍と村上春樹、J-ブンガクなど、どれもわたしには馴染めなかったのだが、この本を読んで「その共感できなさ」の根拠がよく判った。石川の問題もわりと平易に伝わる。
 大塚英志が江藤淳の批評のなかで「村上春樹には内面がない。けれどマッチョへのナイーブな感度はある」と矛盾した評価をしていたことにも納得がいった。

高田明典『世界をよくする現代思想入門』
 ポストモダン全体の地図として、大変に助けになった。果てしない神学議論に入るには、こうした地図が必要だと思う。
 関心の高い少数のマニア(=専門家)と、関心の薄いその他大勢への言葉。具体的な個人に向けられる言葉と抽象的な集団への言葉。そうした使い分けは本来は当然必要なもので、ポストモダンが"実践"を標榜するなら尚更である。その点で基本姿勢を見失わない著者には好感が持てる。

(2月13日 書き忘れを追記)
 カテゴリーに、ネタバレ感想『Fate/stay night』を追加しました。
 まとめ読みしたい方は使ってみて下さい。

Fate構造概観

一足飛びに全体結論を書くのは悪だと思うのですが、わたしでは時間の速さに追いつけないので。
まちばりあかね☆さんの掲示板のために、フライングして載せておきます。


『Fate/stay night』は、多重的な姿をしています。
マクロで言えば
 日本、戦争、理想、英雄、善、物語、言語、作家、オタク、セカイ系、エロゲ
ミクロで言えば
 罪悪感、主人公、ゲーム、マルチエンディング、プレイヤーの参加、選択肢、エロシーン

これらのサブテーマ・視点の意義すべてに言及しようとする(=解釈できる)構造です。(hollowプレイ後わたしは、新たに「男」および「ヒロイン」「男キャラ」が掘り起こされました)


「生まれること = I am born」がもっぱら受身形でなされるように、「新しさ」は、過去形でしか語れないのです。
新しいものを知った後で、過去を振り返っての「知る以前の過去/知る以後の過去」の境界上にのみ存在するもの。そのようにしか認識できない矛盾しているようにも見える概念。

現在のわたしたちが思い浮かべる未知は、無数の「かつて新しかった具体例」から抽象化したものであって、どうあっても「具体的でない」ものです。それを現界(具体化)させようと強いれば、それは「未知でないもの」に変わってしまう。否定神学のようですが、未知を求める先には「絶対の未知には到達できない」苦痛が待ち受けています。

それでもその先を求めずにはいられない人たちがいます。
自分がどうなろうと、自分を越えるものを見たい人たちが。
しかし、自分に似た後続に彼が残せるのは、つねに自分以下でしかなく、
そして、その「絶対にはほど遠い未知」さえ後続にとっては理解の及ばない未知であることもしばしばです。

逃げ水よろしく、最前線は先へ先へと移動します。
そんな最前線に挑んで擦り減っていく絶望に抵抗する背中……。


未知は、自己のなかにのみ存在します。
それは他者によって起こされるときを待って、眠り続けている。
そして目覚めたときには、既にその機能を果たして死んでしまう。

絶対悪は、永遠に眠り続ける。
しかし、反英雄アンリマユは、その意義を得て無数に死んでいく。


Fateは、物語という構造自体で完結しているとも言えますし、
プレイヤーの手が加わって作品として完結するとも言えます。
例えるなら、前者は「聖杯」、後者は「万華鏡」でしょうか。
そのいずれもFateだとわたしは思います。

あなたは、Fateにどんな悪を見て、どんな善を見ましたか?
聖杯というスクリーンに投影されたのは、どんな映像でしたか?
あなたは、自分のFateを見つけられましたか?



最後に、幻視を1つ。
Fateがカタチにしてみせたのは
元長柾木とは違う形の「エロゲへのラブレター」だったのではないか、と。

Fate/hollow ataraxia 簡単な感想

Fate/hollow ataraxia、クリアしちゃいました。
花札だけ出せば我慢できると思って進めてたらシナリオ達成率が7割を越えてしまったので、残りも一気にやってしまいまして。
CGも風雲イリヤ城の1枚を残すだけです。

きちんとした感想は本編の後で書くつもりですが、ざっと。

全体を通して
 ・本編の最大の魅力と目していた構造の妙は、ほとんど見られなかった。
  全体にボリュームも少なめだった気がする。
  (個人的には、同じループ構造を使っていた
   『歌月十夜』と比較する必要を感じている)
 ・日常コメディは、人間側の専売特許だと再確認する。
  サーヴァントでは、やはり屈託を抑えきれない印象が強い。
  その辺りで、ランサーとギルガメッシュの2人が
  メインシナリオのポイントを押さえているのは、必然だと思う。

ライターの問題?
 ・ライダー関係は、違和感があるシーンが多かった。
  風呂場とか、土蔵でイリヤがダイブするところとか。
 ・イリヤの衛宮邸でのはっちゃけも、ちょっと場違いな印象をうけた。
  同じ道場系のノリでも、藤ねえが場所的に線引きしてたのと比べると、
  余計にそういう部分が目立ってしまう。
  悪魔っ子ノリが出来ない(カレンとのキャラかぶり)のであれば
  士郎がらみで攻めるのを避けて、
  セイバーとの擬似母子関係、または桜との魔術師弟関係を
  発展させる方向が良かったのではないかと思う。

気になること。
 ・『天国への階段/レッド・ツェッペリン』
  の詞に触れてる(できたら日本語訳してる)方、どなたかいないかなあ。
  これだけは自力じゃ無理だと思うので。

おまけ。花札のMPメモ。
 イリヤ
  2点、鶴、月、鳳凰(12月のコウ)
  1点、ほととぎす(4月のタネ)、猪、鹿

 セイバー
  3点、鳳凰
  1点、猪、鹿

 アーチャー
  2点、月
  1点、赤反の3枚

 ライダー
  2点、桜に幕、雨

 キャスター 特になし
 小次郎
  3点、柳にツバメ

 ギルガメッシュ
  2点、コウ札全て
  1点、タネ札全て
 ランサー
  1点、菊に盃、青反の3枚

 リーゼリット 特になし

セカイ系について(2)

 前回からの続き。

 Fateにおける魔術師は、魔術と呼ばれるブラックボックス(規則性のみが確認されている式)により一般の人間には得られない効果を得られます。そして、そのブラックボックスの探求(式の言語化)は1人の手によって達成されることは殆どなく、そのため魔術師は子孫に魔術回路を受け継がせ代を重ねて、探求の終わり(根源の渦への到達)を目指すことになります。魔術師一門は、真理に迫るシステムなのです。

 魔の領域へ踏み込みその理外の理を掴んで戻ってくること、そしてそれをより良く表現できる言語へと再構成すること。
 それは異界への旅であり、死と再生であり、ヘーゲルのいう止揚でもあります。それは、なにより冒険と呼ぶべきものです。

 フィクションは、仮構であるがゆえに現実を揺るがしもするし、同時に仮構であるがゆえに捨て去られるものでもあるのでしょう。今回のテーマに即して言えば、「わたしたちはセカイを彷徨うことで世界を省みる。そしてセカイを殺すことで世界を再生させる」ということになります。

 魔術師には、魔の領域を旅するための力や知恵が必要です。そしてその旅程の限界は、現在の自分の能力の大小に比例します。人の倫理は人の領域に最適化されたものであって、魔の領域で使うためのものじゃないし、それが足を引っ張ることもあります。そもそも、人の領域で得られる果実をわざわざ魔の領域で得ようなんて人は想定外なんですから。人の領域と魔の領域とは、場合分けして考えるべき問題であるとわたしは思いますが。



 すこし込み入った問題に触れたため長くなりましたが、月姫世界設定は「境界を侵犯する構造と超能力バトルを用意しやすい対立構造、2つを取り込める世界内設定」という、それだけに過ぎないと言ってもいいと思うのです。ブギーポップシリーズは、「世界の敵のありようが決まれば、それをを救うヒーローのありようも自動的に浮かび上がる」という部分まで、あからさまに書いていますし。

 他にも例はあって、本格ミステリー、とくに館もの・孤島ものに見られる「閉鎖空間の崩壊、脱出」シチュエーションが、上記の「セカイの殺害、世界への帰還」と対応しています。
 いつだったか、コナンが金田一少年(Wiki)を仮想敵として「トリック解明の後で犯人をとり逃がすのは、名探偵失格だ」(大意)と言ったことがありましたが、こういう形式のレベルでは考えてなさそうでしたね。子供に安心して見せられるコナンなら、そう言っても構わないと思うんですが。


 Fateそのものの感想は、またもや次回に延期。
 今週末のうちに書きたいです。
プロフィール

牡牛

  • Author:牡牛
  • 物語る技術(コンセプト、シナリオ、構造、演出、表現ほか)について、分析・提案するブログ。
    主な関心領域
     エロゲ(分析・感想)
     TRPG(プレイング技術の提案)
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